http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20080605/p2

  • 上のリンクを読みながら考えたこと。

2003年ごろ(はてなを含む)ウェブログという道具の登場にかなり衝撃を受けたことをよく覚えています。

当時はまだ学生でしたが、図書館でお堅い研究書を読んでいる場合じゃないという危機感と期待でいっぱいでした。

こりゃ将来は老いも若きもパソコンをやらざるをえなくなって、ブログはますます浸透してコミュニケーションの代表的なツールとなり、今までのマスメディアはブログ的でyoutube的な世界(web2.0なんて言葉はもちろん無かったんです)を無視しえなくなってそれらとのシンクロをはかり、現代人は新聞や手紙やテレビやラジオを適度に手放して、もっとコンピュータに依存するようになるだろうと思っていました。

2004年から3年ちょいのあいだ本もネットもやらずに別のことに専念してて、そこではかなり隔絶された環境に身をおいていたのですが、たぶん娑婆に戻ってきたころには、私が想像していたようなブログ的でyoutube的な社会が、かなり現実のものになっているだろうと楽しみにしていました。

いや、本当に楽しみにしていたんですよ。

が、現実は違いました。娑婆に戻ってのこの半年いろいろ見聞きしたんですけど、ぜんぜんそんなことになっていなかった。

パソコンは確かにより身近な道具になりました。一家に一台ぐらいの勢いで普及してはいますが、みんな仕事でパソコンに振り回されているので、家に帰ってまでパソコンをしたがりません。だいだいパソコンは難しいので面倒です。youtubeなんか無くても、そもそもそんなに観たいものなんかないからテレビとDVDで十分です。ニコ動なんてオタクなものはキモいので当然やりません。

というよりも、みんな本当にケータイが好きなんだ。ケータイでmixiやモバゲーをやり、友達からのメールに返信するので忙しい。ケータイがあれば十分なんです。

わたしは娑婆に戻って以降、多くの友人の家に遊びに行きましたが、彼らの部屋で目にしたのは、何ヶ月も起動されずに机の上で埃をかぶっているパソコンたちでした。それらはだいたい「XP搭載のcerelonノート」ぐらいまででその進化をやめてしまっていました。

その部屋の主人は、これ以上コミュニケーションの仕組みが複雑でわかりにくいものになることに嫌気が差しているようでした。そもそももっといい性能のパソコンを買うような経済的な余裕がないし、たとえ買ったとしてもそれを十分に使いこなすだけの知識と時間がない(と思っている)のです。あくまでもパソコンは遊びでしかなく、生活の中心には到底なりようも無いのでした。

私はブログ的でyoutube的な世界は“当然のごとく”みんなから必要とされ、求められるようになるもんなんだ、そしてみんなそのために努力を惜しまないとてっきり思いこんでいたんですが、そんなことはぜんぜん無かった。これは本当にショックでした。ケータイで知り合いやマイミクやグループで群れていられれば、みんな満足なんですね本当に。そしてその群れのなかでのやり取りが、みんなにとってのコミュニケーションのほとんどなんだと。

この文章を読んでいるひとの多くは、日常的にパソコンを使い、ブログを読み書きしているタイプの方々だと思います。私もその一人です。しかし、私たちのような人種はこの社会にはほんの少ししか存在しないのだということを、私はこの半年で知ったし、私たちはもっと肝に銘じるべきだと思っています。

  • で、このギャップはなんなのよ。。。

あいもかわらずケータイに依存し、内輪のコミュニケーションに終始することは何も悪いことではありません。たとえその弊害がさんざん問題とされても、そのこと自体は否定されるほどのことではない。

でも、「それでもパソコンは必要だし、もっと豊かなコミュニケーションが現実のものになる“はずだ”」という前提がいまだに共有されているようにも見受けられる。もっと云えば、コミュニケーションはもっと豊かになるという淡い期待が、依然として全体の流れを規定しているようなのです。

その代表が進化論的に語られるアーキテクチャの歴史です。ここでは2chもニコ動もケータイも日本的亜種として捉えられています。が、そこには「もっと豊かになるはず」という、(進化論を唱えるときに最も注意しなければならない)進化論的思考があるように見受けられます。そしてそれは私が知るかぎりでの、現実にあるコミュニケーションの「今」とはずいぶんとかけ離れたもののように感じるのです。

時間切れ。気が向けばまた書きます。