裁判員制度についての宗教者というか自分のためのメモ

  • 宗教界、裁判員に悩む…「人裁けるか」「正式な制度だから」

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090111-OYT1T00020.htm

とってもデリケートな問題で、しかも宗教ブログ界隈であまり反応がない。みんな考え中ということなのだろうけど、裁判員制度が現に始まってしまっているので、これは本当に「明日はわが身」な喫緊の課題だと思います。なので、ここで私なりの考えを箇条書きでメモっておくことにする。明日「あなたは裁判員に選ばれましたので」的な郵便が届いたらシャレにならないから。



1、宗教と行政、司法、政治からなる国家権力は分離されるべきという大前提がある。政教分離は近現代における国家が国家たる基礎のひとつであった。これは歴史が証明するところである。
 しかし実際のところ、政教分離という大前提が実はそれほど自明のものではなかったのではないかということも、とくに冷戦構造が崩れてからのここ20年ほどで明らかになりつつある。イスラエルアメリカの福音派は云うに及ばず、政教分離を国是としてきたトルコやフランスでさえ大騒ぎである。これはとっても後期近代的、あるいは2000年代的な問題としてより顕在化してきた。宗教とはつねに/すでに政治である。



2、こういうときに一番信頼できるのはやっぱりローマカトリックだ。だいたいローマカトリックバチカンという国家を形成している。はなから政教分離などという机上の空論など放棄して、権力と宗教の独特な関係性を何百年ものあいだ形成してきた。神道も日本という国家に対して特徴的で、ある意味とってもわかりやすい態度をとってきた。裁判員制度においても「国民の義務なので当然参加すべき」おいうやる気マンマンな回答をしてはいるが、はたして神道界がそのような見解て統一しているのかはちょっと怪しいところ。




3、社会学的な言い方をすれば、現代社会において宗教が担っている役割とは、社会全体に渦巻く軋轢や矛盾を超/脱社会的な視点から解決に導くということにある。つまり世の中のシステムではなかなかどうにもしようがない事柄、慰霊とか、癒しとか、死とかを、宗教の言葉を用いて説明している。




4、というか、宗教者たちは社会のあらゆる解決困難な事態やどうにも困った苦悩を宗教の言葉を用いて説明することを求められている。宗教の言葉は、分断され個別化されたいろいろな問題を、一挙に、総合的に解決することが可能だと考えられているし、宗教者もそう考えている。




5、これを本当に可能にするためには、宗教と国家が同一化するしかないと、宗教は考えている。宗教とは本質的にイギリス国教会になりたがるというわけである。宗教はもとから政教分離などさらさらやる気なし。公明党幸福実現党もまったくもって当然の帰結なのである。宗教は国家との同一化を今後も希求し続けるだろう。あるいは国家という枠を超えて世界との同一化を図るだろう。




6、したがって、今後裁判員制度に積極的に介入する宗教団体が出現するというのは、あながち冗談ではない気がする。宗教(者)は裁判員制度に振り回されるのではない。裁判員制度を端緒として司法そのものが宗教(者)に振り回されるのである。




7、あるいは裁判員制度が待望されることじたいに、宗教の/への根源的な欲望をを感じる(特定の政党が関与してるとかそういう話じゃないよ!)。




8、そう考えると、カトリック裁判員制度に宗教者が関与することに対してネガティブなのは、宗教そのものの欲望にとっても自覚的な結果ともいえるかもしれないし、経典を読み込み、血みどろの紛争を経てきたうえで手に入れた智慧の賜物ともいえるかもしれない。気がする。



  • R.I.P

マイケルの曲のなかで一番すき


新曲です。間奏とかのベースとシンセがまんまYMOテクノポリスです。
ヘッドフォン推奨です。