04月17日のtwitter

  • たまには島田センセーのおっしゃることに反応してみる

4月16・17日(土日)葬式仏教は皮相的なものとしてしか受け入れられてこなかった現実が今回の震災であらわになった気がする−−−島田裕巳の「経堂日記」


1)島田センセーが、震災への様々な関わりを通してこのところやけに活気づいている宗教界を尻目に、いきなり「何をやってもしょせん日本人は無宗教」とつぶやかれて、『葬式は、要らない』を書かれた島田センセーらしい視点であると畏れ入りましたところ。仏教応援団や関連書籍は隆盛を極めども、こういうことを云う方はあまり多くない。

2)このような云い方に対しては、むろん反論したい向きもあるだろう。もはや宗派や教義をも意味をなさないような厳しい震災の現実を目の当たりにして、あるいはさまざまな悩み苦しみを抱えた人びとと向かい合う現場において、目の前に立ち上がってくるものの中に真の宗教の姿を見出そうとしている仏教実践者は、島田センセーのいっけん冷ややかな物言いにまず虚しさを覚え、「んなこというなよー」ってカチンとくるかもしれない。

3)困難なときこそ信仰の出番だという云い方は、たしかにそうである。そうなのだろう。困っている大勢の人びとに救いの手を差し伸べずに何が仏教だ。社会貢献は現代における宗教の重要な責務だ。たしかにそう。逆に云えばこれまで「葬式仏教」だけでなんもしてこなかったもんで、現代日本人の宗教への不信や無宗教という悲しむべき状況があるのだという後ろめたい思いがある。

4)ところで、とりわけ今回のような大震災において、本当に仏教あるいは宗教が必要とされているのかについて、実は私はあまり確証がない。まずもって宗教実践者が彼の地に於いて担いうる役割をひとつひとつよくよく考えていくと、なんだか訳が判らなくなって私はめまいがしてくる。

5)遺体の前で読経することは「基本的に誰にでも」できる。それが坊さんの専売特許であるという根拠は、「やっぱりお坊さんにお経を読んでもらったら安心する」という慣習的な感情(島田センセーのいう「文化としての仏教」)にしかない。むろんまともなお葬式も出来ないホトケさんに少しでも経を唱えて差し上げるのは、被災地での坊さんの貴重かつ崇高な役割である。ただしそれ以上ではない。ところが(良かれ悪しかれ)それ以上ではないことをそれ以上であるかのように見せることも、これまた宗教の得意分野なもんで困る。

6)宗教を社会のなかに組み込まれたひとつのシステムであると、ちょいと古めかしく捉えうるなら、大震災という人間の人知を超えた非日常、そしてそれによってもたらされた突然の大量死を、宗教というシステムで日常へ引き戻す作業も、これまた宗教実践者に求められる仕事と云えるだろう。しかし実際にシステムとしての宗教を、大災害という壮絶な非日常の現場で駆動させるのはそう簡単なことではないし、そもそもそのようなシステムが駆動しにくくなっていたから宗教への不信が問題になっていたのではなかったのか。

7)そういえば「それでも実践しつづけなければ宗教者ではない」というのが私の師匠の教えだったのだが、仮に宗教システムを駆動させようとするならば、島田センセーに無宗教といわれようが、現場で坊さんは要らないと罵られようが、「ただ実践しつづける」という純粋で無為なエネルギーを、まさに観音さんのように大量に注ぎ続けなければならないし、とりわけ仏教の実践者ができることは論理的にはそれしかないのだろう。

8)そのような実践が彼の地のいたるところで目下行われていることに仏教の存在を強く感じるが、ちょっと目を離すと為が為を生んで盛り上がるもんだから、ヒヤヒヤして見てられない。

葬式は、要らない (幻冬舎新書)

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