佐藤友哉『フリッカー式』

もう三年近く前の作品なのですが、前々から気になっていたので、この休みを利用して読みました。当然のことながら続編は未読です。オビに「あの90年代に10代のすべてを消費した作家」とありますが、そういえば私と著者は同い歳です。そうですか。私(たち)は暗黒の90年代に10代を消費したわけですね。あんまそういう意識はないのですが。私は無頓着な人間なので、自分の10代が90年代という時代とどう重なるかなんてあんま考えてませんが、他の年代の人びとと接する機会が多くなってきて、ちぃーとばっかし意識するようにはなりました。
しかしまず、文章が拙くて読めん。難読漢字多すぎ(これは昨今の作家の悪い癖です)。それにこの人の描写や言葉遣いって、意外と古くさいと思うのです。札幌の郊外という設定も関係するのかもしれませんが、一、二歩ずれた感じ。むしろこのずれた感じが郊外っぽいのでしょう、か。
たしかにこのずれた感じは私にもありました。でもそれは「郊外」として特権化すべきほど大きな問題なのかと問われると、ちょっと疑問です。まぁ私が育ったのは郊外ではなくど田舎ですから、そこらへんの感覚はちと違うのかもしれません(でも私が上京するときにはちゃんと郊外化してましたよ)。

(以下、ネタばれ注意)
「件」って境界的な妖怪なのですが、この物語における境界って「まとも/狂気」「都市/田舎」という境界なわけですか?境界例と郊外を重ねるような読みでだいたいあっているんでしょうか?2001年ってこういうのが全盛だったような気が
……はいはい、わかったわかった!み〜んなトラウマもってんだよ!シスコンですよ!でもそういうので全部やっつけんの、もうなしにしませんか?いっかいこういうのを精算するような仕事がそろそろ出てきてもいいんじゃないでしょうか、と同年代の作家さんに声を大にして言いたいのです。「境界的な世代」とかなんとかでひと括りにされるのはもうこりごりなんです。勘弁してください。誰か頼むからさっさと治療してくれ。
とはいいつつも、zazen boysの新譜はしっかり買ったんです。初期パニックスマイルに戻った。向井秀徳という御仁はこういうのしかできんのではなかか?という疑念が沸々と涌いてきています。