「死の覚悟」と「自己責任」

 橋田信介イラクで襲撃され死んだらしい。「突撃型」ジャーナリスト・橋田信介らしい最後、なのだろうか。

橋田信介らしい最後」という言い回しには、ちょっと違和感を感じる。たしかにそうなのかもしれないが、イラクで丸焦げになったこのオッサンにとって「自己責任」は「いつ死んでもいい」という覚悟とほとんど同じものであったのだろう(私は、今回の件も含めて、ジャーナリストとしての橋田信介のやり方はけっして一流といえるものではなかったと感じている)。

 しかしそのことによって本当にこのおっさんは己の「自己責任」を果たしていることになるのだろうか。

 ここはあえて、先の三人の人質のときと比較してみると、結構いろいろ見えてくるかもしれない。先の三人に「死の覚悟」がなかったといえば、決してそんなことはないだろう。普通に生活しているときでさえ、私たちは「死の覚悟」という感覚と無縁というわけではない。

「死の覚悟」そのものは個人的な意思の問題であって、それが個人が社会に対してなんらかの責任を負うという意味での「自己責任」と同じ意味を持つという確証は、どこにもない。「自己責任」という言葉がインフレぎみにあふれるなかで、もっと真剣に論じられていいはずの「自己責任」という問題が、まちがったかたちで論じられてしまっているようでならない。

 信念とか覚悟という精神論的な物言いを「自己責任」論において単純かつ絶対的に用いるべきではないし、でなければ先の三人の信念は橋田のオッサンの信念よりも劣っていたという、どうしようもなくくだらない話になってしまう。勝○○彦みたいなどーしようもないおっさんとかが、くだらないことを言い出すのが目に見えて、ウザい。

 電話でコメントしていた不肖・宮嶋茂樹の声に元気がないのが印象的であった。夕方のテレビは、情報がないのかあまり取り扱っておらず、曽我ひとみさんの動向などのほうが大きく報じられている。テレビ朝日が唯一過去の橋田信介の映像などを用いて「まともに」報じている。