デジャヴというやつは

 私の場合、ほとんど女性、しかも若くて美しい女性に関係した記憶としてもたらされるのですが、この否定しがたい事実が私のなかでデジャヴにたいする幻想と妄想と悲喜こもごも、まぁほとんど妄想ですが、そういったものをかき立てます。

「デ・ジャ・ヴ」という言葉の、ワルツの三拍子のようなリズム。「ヴ」というフランス語特有の発音。かつて見たことがあるかのようにそのものに見入ってしまう歴史主義者を誘惑する精神の働き。加えてそこに美女が登場するとあっては、日常に生きることをよしとする私も、冬空の川べりを散歩するときなどは、ついつい妄想に拍車がかかり、デジャヴの到来を願いつつ、過ぎ去りしモノを目の前に降霊させるという危険な術云々について、よからぬことを考えてしまいます。

 しかるにデジャヴとは、過去の強烈な印象をもってはじめて起こりうる現象ではありますが、それはあまりに鮮烈であまりに甘美なために、意識にのぼったとたん精神に破綻をきたす恐れがあるので、すんなりと無意識のうちに閉じこめられることになります。

 それはまるで無能で高慢な主人を陰で支える経験豊かな召使いのような、一瞬にして完璧な処理です。

 生理学的には、人間の脳のほとんどは使われることがないのだそうですが、その使われることがないシナプスの、ちょっとした電流の短絡がデジャヴなどという思い違いを引き起こすのかもしれません。

 しかしいずれにせよ、今回私が邂逅したデジャヴというのもまた美女がらみでして、漁港とSpank Happyというとんでもない組み合わせのライブが行われているまさにその会場で、呆然と漁港の登場を待っていた私の「左」前に、見覚えのある美女が立っていました。けっして細身というわけではありませんが、むしろちょうどよい感じの肉付き。少々きつめのパーマ。濃い緑のセーターに黒のブーツ。ルイ・ヴィトンのポーチ。どこにでもいそうな大学生が持つ謙虚さと知性、そしてそこから漂うセクシー。

 私はこの女性の顔に、明らかに、明確に、見覚えがあったのですが、この女性がだれなのかパッとは思いつきませんでした。あまりにジロジロ凝視してもアレですし、駒場には幾度も足を運んでいたしスパンクスのライブにもけっこう出向いていたので、まぁそんなこともあるだろうとそのまま漁港の登場を待ったのでした。

 すっかり日も落ちてスパンクスが登場。ステージごとにヴォーカルがかわるという、もはややる気のかけらもない脱力感あふれる大変素晴らしい口パクのステージに(むろんこれは純粋な意味での賛辞です。口パクこそがスパンクスにいちばん合ったスタイルなのです。こういったスタイルが許容されるのはYMOスパンクスだけ。鳥山明先生が読めるのはジャンプだけ)、「踊れないダンス・ミュージック」の真骨頂を見た気がしました。かなり前の列で見れたので菊池さんが神経質に振りまくパヒュームの香りがほのかに漂い、とてもいい気持ちになってきましたところで、ふと「右」を見ると、彼の女性がまったく踊らず体も揺らさずに、腕組みをして、口元にかすかな笑みを浮かべながら菊池さんを見つめていました。あまり突然さとあまりの偶然とあまりの至近距離に、私は思わずのけぞってしまいました。

しかし、それにしても、この女性はいったいだれでしょうか。

・大学のときの知りあい
・テレビや雑誌で見たことがあるモデル
・かつてお付き合いしていた女性
・私の頭のなかだけに存在するバーチャルびじょ

 少しのあいだ踊るのをやめて、私は彼の女性の顔を見つめていました。頭のなかで過去をさかのぼるときの、あの独特の浮遊感を味わっていました。パードン木村氏謹製のビート、そして壇上から振りまかれるパヒュームが私の全神経を刺戟するので、いやいちばん刺戟的だったのが彼の女性であるのは当然のことなのですが、私はちょっとした酩酊におちいったことを、ここで告白しなければなりません。

 意識朦朧となっておぼつかない足元を奮い立たせながら、私はあいかわらず踊れないダンスを踊っていたのでした。

 野田三田のどーでもいい論評はいいから、スパンクス万歳。