問題なのは分断統治ってことであって

あーっ、でもそんなことはどういでもいいのかもしれない。新興メディアと旧来メディアのバランスが変化する過程がどんなぐあいかってことをグチャグチャ言っててもおもしろくない。その変化ってやつのベクトルってのは、はたして「草の根ジャーナリズム」(とかなんとか)っていう輝かしき理想論や経済的思考に基づいた現実論っていう枠「だけ」で考えられんのかって不満が、切込vsネ殺の議論を読んでると残る。

論壇系(文学を含む)関連で言えば分断統治というか役割分担ってのはますます進行していて、ただそれを「分断統治」と言うか「役割分担」って言うかっていうのは重要なポイントなんだけど、それでもまぁ現象面ではだいたいおんなじことを言ってるのでここでは「分断統治」と言ってしまうが、たとえば『反社会学講座』とか『電車男』とか『Deep Love』とかいうのはこの分断統治の所産以外のなにものでもない(ように思われる)。出版ではいまブログでおもしろいことを書いているやつをヘッドハンティングしまくって、お手軽に本にしちまおうという傾向が非常に強い。まぁ出版社も刊行点数稼がねばならんからたいへんなんだろうけど、当の編集者は己がどんなことをやっとるかってことに全然意識的ではなくて、「メディアはちがえどやることは一緒」とか「コンテンツって便利な言葉だね」なんて平気で言っているのを見ると呆然とする。まーそれはよい。つまり出版というジャンルではすでにネット世界とのシンクロというか韜晦みたいな現象は起こっている。出版では「ネットの世界」はもう立派な「リアル」たりえることもあるのである。

それは紙媒体がネット媒体に移行するとか、新しいメディアの形態が成立するということではないのは当然だが、切込隊長がそれを「機能と役割」的な問題として収斂しちゃうと、それは結局あらたな棲み分けとあらたな利益配分とをシャッフルしなおすっていう、非常に見事な経済学的社会像を跡付けしかしていないってことになって、なんかそれは結局資本をもってるやつが勝つってかんじで全然おもしろくないし、十分じゃないような気がする、少なくとも論壇系ブログでは。

別に論壇系ブログが特別ってわけじゃないけど、分析のためにはもうちょっとファクターが必要だなって感じで。それはなんだといわれると、まだ考えがまとまってないんで困るんだけど、コミュニティーをどう成立させるかってことはとくに大切かもしれん。論壇系ブログを読むひとの絶対数は限られるはずなので、ある程度の閉じられた空間を捻出する→そこへのアクセスに対して課金する。あぁなんか安直かな。