「テキストとは資本の奴隷である」とドゥルーズは言ったとか言わないとか


 ブログに関して、今週末ちょっとした事件があった。

 事件のあらましは次のとおり。

 よーするにですね、NHKで「ブログ」を特集した番組があったんだと。んで、そこで紹介された「ブログ」ってのが、ある商品や映画とかをみんなで批評していきましょーというコンセプトでずいぶん盛況であったらしいのだが、実はそこで批評された映画が配給会社から依頼されて書いた提灯記事で、それを彼の番組で当のブログの主が「平然と」(ここがポイントなのだが)バラしてしまって、純粋な批評だと思って読んでいたブログの読者諸氏から非難轟々、というわけ。


 いや、実によくある話である。たしかによくある話なのねん。



 某国営放送の番組改変問題とか、新規球団で話題のR天とあるマスメディアの結託とか、そういや今回問題となったブログの主はR天がらみのひとなんだが。


 そういうことはどうでもいいのだが、つまり問題はブログをはじめとするインターネット世界におけるテクストとは、そういった提灯記事的な性格をすでにテクストそのものに内在させているのではないかということなのである。当然ながら、そのようなテクストにおいて「批評とは独立公平な立場から」という前提は通用せんのである。


 そのことについて、さっそくわが大学の偉大なる先達であらせられる増田氏が的確に論じておられる。増田氏曰く世の中的感覚において批評と広告の境界がなくなっていることに戸惑いを隠せないのこと。氏はこの問題を、批評を書く者のスタンスの問題として提起しておられるようだが、まずみなさんにお伺いしたいのは、「批評とは独立公平な立場から」という前提は、はたして共有されているのか否か。どうなのでしょう。

 すまんけど私はぜんぜん共有していない。テクストとは資本の奴隷であるべきだとさえ考えていて、キャッチコピーのつもりでダラダラ書いている。

 この堂々たる批評宣言の理由を説明せんがため、私はここでドゥルーズの思想の究極について講釈をたれることにやぶさかではないが、本日はあいにくジムに行ったり「サンデー・ソングブック」を拝聴したりこれ観たりせねばならないので忙しい。簡単に申し添えておくにとどめる。
 彼の事案は純粋に技術の問題なのであって、あらゆるテクストを広告化する技術が存在するのなら、それを防ぐ技術も存在するはずである。「あらゆるテクストはプログラムである」と言い換えてもよい。そのような意識が欠落したままで書き綴られるブログは、その内容がいかに優れていようが批評として決定的な問題をはらんでいる。そしてキャッチコピーほどそのことに自覚的なテクストはない。んでブログはキャッチコピーとしてのテクストを鍛錬するには絶好の道具である。私にとってのブログとはそれ以上でも以下でもない。


来週もセイムタイム、セイムチャンネルで皆さんごきげんよう、さようなら