大学が好きなんだからしょうがないじゃない

 内田センセーのブログ周辺が出火元の首都大学東京:通称「クビダイ」問題。


(1)まず確認しておきたいのは、どうあがこうがこの問題はある意味、ある段階においては「終わった」問題であるということ。それよりなにより今春からクビ大に通う学生がおるのだから、クビ大をこき下ろすのはそれら学生のためにもならない。今春からクビ大の法科大学院に進学する友人がウツになりそうな勢いだから勘弁してくださいほんと。

(2)この時期になってもクビ大の存在そのものを否定してしまう言説には、どこか”政治的無能”、”ニヒリズム”の香りが漂っているかんじがする。むしろクビ大という存在は人文諸科学の敗北を記念する碑として、後世に伝えるべきである。わたしもクビ大はそう長続きしないと踏んではいるが、そうであるならばなおのこそクビ大という存在は貴重である。

(3)クビ大の存在は否定しないが、クビ大を批判する代表的な物言いとして、川瀬さんのこのエントリとかshingさんのエントリのようなものが挙げられる。さらにそれにたいする批判にはR30氏のこんなコメントみたいなのが多い。

(4)大雑把にいってここでの対立は、「大学は効率的であるべきか、非効率的な部分があるべきか」ということだ。ただこれは大学のいろんな側面や機能、あるいは東大から地方短大までをジュッパヒトカラにした議論だ。理念としては重要な議論だがあまり生産的ではない。




(5)経営という思想からすれば、当然のことながら大学をはじめとする組織運営は効率的に執り行われるであるべき。無駄なお金や労力は使わない。これに異論のあるひとにお目にかかったことがないので、了解されたものとする。そのことを素直に指摘したR30氏は至極まっとう。

(6)川瀬さんやshingさんはこの「まっとうな」意見にたいして、なぜ非効率的な側面が必要かを説明しなければならない。徹底的に言語化しなければならない。その過程において「非効率的である」という言い回しにこだわるのであれば「非効率的であることがいかに効率的であるか」ということを強調すべきであると考える。経営と進歩的な対話を進めるには、それしかない。

(7)「非効率的であることがいかに効率的であるか」という言い分は正確ではない。「経営的に非効率であることが学問的にいかに効率がいいか」が正しい。

(8)学問的に効率がいいことをどうやって証明するか・・・・・・そもそものコンテクストがことなる以上たぶん不可能である。学問そのものは経営的評価の対象にはならないってことは、逆にいえば経営という思想が学問を捉えきれないということでもある。その意味で学問は安心していい。

(9)しかし学問にまつわる諸要素(施設設備費・研究費・ポスト数・学生数・給与・学費・著作論文刊行数・身分の保障と社会的地位etc)は、経営的評価の対象になる。

(10)経営的評価の対象になる以上、これら諸要素は経営に引き渡されていくだろうと予測される。であるならば今後学問にまつわる諸要素を経営に引き渡す段階において、学問そのものを死守するための条件闘争に専念すべきである。学問そのものは死守されるべきである。クビ大の場合、学問そのものが守られていないのではないかという疑念が拭いきれないということが問題なのである。

(11)ただし学問そのものを死守しようという強い意思を持った大学教員がいったいどのくらい存在するかどうか、けっこう疑わしい(学生にはそんなやつほとんどいない)。さらにいえば学問そのものが存在するのかどうかもけっこう疑わしい。しかしそんなポストモダンなことを言っていると条件闘争が不利になるので、条件闘争が終了するまでは学問そのものは厳として存在するということにしておくことが、おそらく大学の内側にいる人間の唯一かつ正しい振る舞いである。

(12)学問そのものを声高に叫ぶ大学人の振る舞いは、往々にして世間からは胡散くさく見える。少々のやっかみを含んだ反知性主義に耐え、コンコンと学問そのものの豊かさを説くことができないひとは、大学人には向いていない。というかそうじゃないと鬱になってしまう。そういう意味では川瀬さんやshingさんに学問そのものの力を説いてほしい。ほんとにがんばってほしい。



(13)私は、大学という空間に存在する学問が好きなのであって、非効率なかんじとかまったりした雰囲気とか貴族趣味な感じや退廃的教養主義とかニヒッてる感じが好きなのではない。私は学問がある大学が好きである。学問原理主義である。

(14)以前こんな文章書いたんでよろしく。