阿久根のことについて。の補足

坊主が一年で一番忙しい二週間を無事乗り切り、今日からやっとゆっくりパソコンの前に座ることができるようになった。9日のエントリをあっちこっちで言及していただき、阿久根のことについて貴重なご意見を賜る機会が得られたことは、私にとっても阿久根にとってもいいことだった。と信じている。

まずこのブログの読者にお願いしたいことは、ここで書かれていることが「阿久根市民の生の声」ではないということ。私は阿久根市民ではないしそうであったこともない。たまたま阿久根のとなりの町に生まれ、知り合いの何人かがいまだに地元にいるというだけ。もちろんAZ(A-ZではなくAZが正しい表記だそうだ。どっちでもいいけどね)にはよく行ったし、多少地元びいきであることは認めるものの、いまだにあれほどの興奮したショッピングモールはない。大好きですAZ!!

そしてもうひとつ、「阿久根が未来の日本の姿である」ということは私はひとことも言ってない。けど「ブロク市長」と「AZ」を意図的に結びつけてそのような方向に誘導することによって、阿久根のリアリティをより分かりやすく説明したいという眼目が当初からあった。

だいたい今回の阿久根の問題に際して、民意についての経済的な説明が「シャッター通り」だけというのがそもそもおかしい。政治部は市役所に取材に行って、経済部or社会部はAZに行って(AZにどんだけ東京から取材が来たことか!)、なんで両者を並べて考えようとする報道論説がマスメディアにないのか。わからん。

にしても、阿久根に限らず、リアリティとは何かということについて考えずにはいられない。とくにこれだけ言葉足らずな状況の中ではなおさら。「阿久根が未来の日本の姿である」という言い方は半分当たってるけど半分は違うような気がする。AZというバケモノが誕生し、周辺の地域社会が再編成されたのには、この地域特有の様々な要因が絡み合っている。当然そこには全国の地方に共通の要因もあるだろうし、グローバルな世界の動きと関連したものもある。しかし同時に、毎年猛烈な台風に見舞われるという気候や(すでに過ぎ去った感はあるものの)焼酎ブームによる活況といった地域的特性がまったく関係していないというわけではないかもしれない。それに小さな社会ではやはり具体的な人的関係が大きく事態に作用しがちだ。

このようなリアリティを無視した末の政治分析というものにどれほどの価値があるのか私はよく知らないけど、旧来型の地方政治が立ち行かなくなったのは住民のリアリティを政治家が感じることができなかったからという説明はまぁいいとして、当のブログ市長がそのようなリアリティを感じることができてるかといえばそんなことはない。市長は空気を読まないから市長になれたのであってですねー。逆説なんですよ。とんちんこんなことばっかりなんですよ。AZにしても市長にしても空気読まなさぶりがウリなんですけど、そうなるともはや効率性とか過疎とかという空気も読まなくなっちゃってるところがなんかすごいなーと。とんちんこんだなと。

だからといって、住民もみんなとんちんこんということではもちろんないわけだが、一方で日々の生活をなんとか立ち行かせながら一方でとんちんこん騒ぎ。私はこういうの嫌いではない。それとも単なる地元愛なのだろうか。

ま、一度阿久根においでください。AZでお買い物を堪能したあとブルートレインに宿泊でよいのではないでしょうか。シャッター通りもそれはそれで楽しいみたいですよ。