ひまを持て余して私の修論を比較的熱心に読んでくれている人のための解説。

 ここ数年は本当に精神分析について考えることが多くて、まがりなりに本を読んでいるのですが、やっぱりよく分からないところがあります。私が精神分析について考えるようになったのは、直接的にはフーコー的な(しかもきわめて俗っぽい)ものにホトホト嫌気がさしたからなのですが、いろいろ考えていくうちに、フーコー的なものの裏にあるおどろおどろしい部分というのをどう取り扱うかというところにやっぱり逆戻りしてしまうのです。「根源的な喪失」と言ってしまえばそれはもう楽で、そう言えたら私は立派な精神分析学派となりうるわけですが、どうも踏ん切りがつかなくて、修士論文もそれで失敗したようなものです。最近は「これは根源的な失敗が運命づけられているのではないか?」な〜んてことを考えたりもしますが、それは己の無能に対する言い訳ってもんですか。
 ちなみに、各方面で修士論文についてしつこく聞かれるので、ここで言い訳しておきますが、私は民俗がどうのこうのはもうどうでもよくて、別に民俗学がどうなろうと知ったこっちゃないのですが、民俗は精神分析の対象としては格好の例となりうる、と踏んで六年も費やして研究してきたのです。で、民俗をフーコー的な枠組みでなんとかしようというというスタンスがどうしても嫌で、それはもしかしたら私の本源的な部分が民俗っぽいものと親和性があったということと関係しているんじゃないかという予感がずっとありました。そういう意味では私の民俗研究は自己分析的な要素が多分にあって、というかそれしかなくて、だからこそ民俗学史研究に精神分析を持ち込んだのです。でも、前から言ってますように、これについてはもうおしまいにします。抑圧します。