1月27日の日記でも書いたんですが

北田さんのところの
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040125

を読んで、「あぁまぁそう言われればそうなんですね」という程度に納得。ただ私は根っからの歴史主義者なので、データベース的な歴史の(再)構成が歴史学的な記述として実質的に効果を持つかは疑問です。原理としては非常に共感するし、『<民主>と<愛国>』の消費のされ方としてはよく分かったんですけどね。
歴史学プロパーでは小熊的記述には賛否両論あって、それは歴史学が(たぶん私も)いまだに旧式左派イデオロギー一色だからってものあるんだけど、小熊さんが「データベース」って言葉を使ったことで、小熊さんへの旧式左派の懐疑はいよいよ深まったという危惧もあり、それはとっても不幸なことなのかもしれんという気がします。小熊さんが「inter communication」や「理戦」でやっているインタビューに明確にあらわれているある種の齟齬はその典型的な例で、私の現状ってのは、ああいう齟齬と毎日戦っているような毎日なので、私としてはそうしてもそこに目が行ってしまう(それを不幸というかどうかはまた別の問題ですが)。データベースデータベースって持ち上げられているけど、実際はそんなレベルでの闘争がつづいているような気がします。私はむしろこっちに興味がある。
とくに世代という問題は非常に根深くて、それは理論的な議論の部分でも実感するし(むろん私の場合、旧式左派のそれとの「世代間格差」を日々実感しているのですが)、仕事していてもよく感じます。今んところは、私も北田さんと同じくペンディングということにしたい。でも、あえて80年代生まれという自分の立場を考慮しつつ言えば、歴史をデータベース的な枠組みでしか再構築しえないという現状もあって、それはひとつの可能性でもあるし、限界でもあるような気がします。とりわけデータベース的なものってアイロニーを助長してしまう危険性もあるっぽい。そこでネオリベっぽくならないところでどう折り合いをつけていくかってことは確かに問題だけど、それ以上に、『清水幾太郎』がはからずも露呈してしまっているように、データベース的記述が一瞬にして陳腐なものへと零落してしまうこともあるってことなわけで、その危惧というか懐疑が私の中ではいまだ払拭できないでいます。これも今後継続審議。

きのうは「この世の外へ??クラブ進駐軍」を観てきました。「ミュージック・マガジン」誌で東谷さんがインタビューしておられます。最後に朝鮮戦争に巻き込まれるかたちで物語が終わるのは、やっぱ「KT」との連続性を考えているからかな。いろいろ細かいところには文句もつけたくなるけど、全体としてはよくできた映画でした。「スタジオ・ボイス」の新しいやつは結局買わないことにしましたが、周りの出版業界関係者はこぞって購入している模様。