ここをみて思い出したが

サヨクというか極左を自認するワタクシとしては、 カン・サンジュンが言っているサイード的感覚の重要さが痛いほど(って言い方は嫌いなんだけど)分かるので、それを政治経済的な文脈のみに帰結させることで、経済と権力が分かちがたく結びついてしまうことの危険性を喚起したくなるんだけど、そこを思いとどまって政策的な判断を冷徹に下そうとすれば、どう考えたって参政権より帰化が先にくるべきであるはずで、それは切込隊長とおんなじで公明党とか一部民主党とかホントもう勘弁してほしいのだが、それはそうと、鄭大均の社会学的手法がかたよっているとか最近のカン・サンジュンがどうもトチ狂っているとかっていう苛立しい事態からも予感される恐ろしい(けど私が個人的かつ無責任に待ち望んでいる・ニヤリ)未来、すなわち日本という国家的アイデンティティの瓦解と権力と経済が結びついていることによって引き起こされる経済的混乱が、東アジアでは比較的まともな日本の民主主義と適度な腐臭に充ちた消費経済を質的に崩壊させる可能性があり(っていうかそれは日本の若年層人口の減少によってすでに内部崩壊しかかっていて)、そして日本のサヨク思想はそのような事態がいかに反動的暴力的な結果を招くかをまったく理解しないでサバルタンだの流浪だのと大騒ぎしているいっぽうで、難民認定をサディスティックに拒否しつづける場当たり的な政策なんかではもうどうしようもないほどに、すでに事態は進行しているのを肌で感じるにつけ、むしろ日本はより高度な資本主義社会と分配のシステムを樹立し、そこに外国人を参入させることに専心したほうがいいのではないかという、それじたい政治経済的な(というよりオタク的な)帰結に至らざるをえず鬱である。要は外国人でも誰でも働いたぶんだけ儲かることを保証してやればいいのだってことになってしまう。利益が海外に流出する云々というなら輸出を増やせ。まー民主主義の基盤となるべき「市民」社会は経済的な底上げなしには確立しえないというヴェーバーばりの暴論を、わたくしは今展開しているわけですけども、それはあくまでも国家を突き抜けるベクトルを持つ経済の力をなんとか流用できないかというアイデアからくるわけで、ネグリの『<帝国>』を読んで以来、そういう直感が夢の中に出てくるんだよね。「腐臭ただよう爛熟した経済はオルタナティブな社会を作るための肥料となる」というのが八〇年代以降を生きた我々が唯一得ることができた歴史的直感、というわけです。分裂的だなぁ。
まぁそんなニヒルな社会を構成するための基準(参加資格)として、参政権より帰化のほうが有効っつーか重要なのではないかと思う。まぁこれはひとつの社会モデルなわけで現実にはそうかんたんにはいかないし、アメリカみたいに人種間の溝を広げてしまいかねないんだけど、アメリカを反面教師にしてなんとか・・・って過去の歴史を見ても分配と経済を両立させるにはやっぱ単一民族国家的な枠組みを前提としないと失敗しちゃうんだよなぁ。北欧とか。なんとかならんかなぁ。