ヤンキーじゃないけど私は

地元のTSUTAYAに普通においてあったので普通に購入。

ヤンキー文化論序説

ヤンキー文化論序説

ヤンキーが今の日本のカルチャーを考える上でとっても重要であることは、みんなわかってました。でもそれを論じようとするひとが(一部を除いて)ほんとにいなかった。
これは単純に資本との親和性に起因する問題、つまりヤンキーが、昨今のオタクのように「文化」となったときにそこにどれだけのお金がついて回るかかなり疑問、ということに尽きるように思います。

逆に云えば、オタク文化(論)はもはや資本という主軸を抜きにして考えることはできないし、無自覚なまま資本に近づきすぎた言説が多すぎるように思います。その反動においてこの本が生まれたということも示唆に富みますが、まぁオタク云々はいいとしても、《「東京」なき「郊外」@速水健朗》たるここ京都の山奥にて一生を過ごさんと二ヶ月前に移住してきた私にとって、ただただ資本に吸い取られることを宿命づけられ、ファスト化した地域社会にどのようなカルチャーが可能なのかという問いは現在進行形で重要です。まぁ私が「東京」を捨てたのにはそこに幾ばくかの戦略と可能性を感じとってのことではあるのですが。そしてそれは日比谷公園のど真ん中に発生した「派遣村」の問題とけっこう直で結びついたりもするわけです。

とまぁムズいことはこれくらいにしてこの本についてですが、上記のような理由から、ヤンキーを「文化」つまりそこに「当然のものとして」「連綿として」ある社会的な様式として論じることに、ずいぶんと楽観的なのが気になりました。それはこの本のカバーやオビに如実に現れているようにも思います。が、それはオタク論との対比でこの本を売らなきゃいけないという意図があることもわかるから目をつむるとして(こういう本を結構な刷数で売ってくれてる河出はエラいと思います)、ヤンキー表現の世界を論じるのに結局近田春夫とかをもってこざるを得ないのかー?という。確かにヤンキーの系譜学は大事よ。でもそれだけじゃしょうがないわけで、2000年代にヤンキーを語ることがいったいどういうことを意味しているのか、もっといえばなんで私たちは昨今のオタクへのまなざしににあんなにイラつくのかということをもっとちゃんと考えるべきじゃないかなー、と思ったりもするんですけど。

五十嵐さんが森田恭通に引っかかって(いや、ほんとあれはヤヴぁいよね!森田!)この企画をカルチュラル・タイフーンに提起して蹴られたという事実に、ほんとマジで失望した。