飯がうまくて仕方ない!シアワセー!!!

京都に来て、一番よかったと思うのは飯がうまいことである。

今はおかげさまで、京都的な三食を有難くいただいている。とりわけ京都北部は山の幸が豊富で、豆や筍がうまいし、煮物や佃煮、焼きなどなど調理法がいろいろあってうまい。
あと、これはまた別の機会にお話したいのであるが、肉がうまい。うまいといっても「○○牛」とかではなくて、牛豚鳥以外にも鴨、鹿、猪といった色々な肉が身近にあって口にする機会が多い。とくに鹿のステーキがうまいらしい。まだ食べてないけど。
つまり山の幸にしても肉にしても、ここには確固たる食文化が根付いているのである。これまで私が生活していた場所にそういったものがなかったわけではないが、全くこれだけ確固たる食文化が定着しているのを、外から来てまのあたりにすると、その確固たるやはっきり見えてくる。

最近ミシュランの京都・大阪版が発売されるにあたって、関西の飲食業界ではちょっとした騒動になっている。それについて今日の週刊文春に、関西ラブでおなじみ「ミーツ・リージョナル」元編集長の江弘毅氏が、関西ラブな視点で、つまりミシュラン批判の文章を書いておられる。内容はまぁ立ち読みしていただくとして、そこに引かれたアラン・デュカス(チョー有名なシェフ)のコメントが印象的だ。

日本の文化においてじぶんが感じてるのは(略)「地方にある」ということです。「地方にある」ことによって、歴史が深く保たれていて、動かない。人間がいて、歴史があって、ストーリーがあって、言い伝えがあって、習慣がある。そういった中で、料理は生まれてくるものだと思います【以上、週刊文春からそのまま引用】


京都や大阪の人が何を怒っているかといえば、ミシュランがこういった文化や文脈を全く無視している(ように見える)ということに怒っているのであるが、実際のところ、こういった文化や文脈がデュカス氏が言うように「そのまま」残っているのかといえばそうでもないわけで、そこになにか本質的なものを見出そうとするのはちょっと違うとも思う(そういう考え方はミシュランとなんら変わらない)。
でも私たち人間にとって食べることほど本質的なこともないのもまた事実。そしてそこに文化があるのもまた事実。さらには、ミシュランに代表されるような「食の資本主義」が無視し得ないひとつの文脈であることもまた事実なのである。そんで、それぞれの事実や文化が遭遇し衝突するのがグローバルな世界という劇場のルールなんだから。

だから「地方にある」私たちは、個々の食文化をグローバルな劇場のうえでどう立ち回らせるか、ちょっとちゃんと考えていかにゃいかん。じゃないとこういう食文化はすぐなくなっちゃうから。確固たる食文化が無くなっていくのをみるために、私はここに来たんじゃない。

うまい飯を食いに来たのである。