内田先生が人類学的知見とか言うから悪いんだ

昨日のエントリは内田先生んとこのブログを読んで書いたんだが、なんかうまく書けてなかったので書き直します。

内田先生の論理は非常に真っ当な論理であります。しかしその真っ当さがゆえに違和感バリバリなのです。しかしそこをどう云えばいいのかよくわからん。この違和感は私がここ数年抱き続けている違和感に通じるものがあろうかとも思うので、この際エントリを書きながら考えていくことにします。

内田先生は
・社会活動の沈滞による)経済的損失よりも感染拡大による社会的人的損失こそ避けるべきである
ということをおっしゃっている。
もう一言
・「我が身の安全よりも、利益を選んだ人間はたいへん不幸な目に遭う」という説話が示す人類学的知見を信頼している
とも述べておられます。

しかし、まず前者について、現状見るかぎり感染拡大か経済損失かという対立項はいささか逆転の様相を呈しているようにも思われます。
例えば、WHOのフェーズを「6」すなわち世界的大流行のレベルに引き上げることについて、現在ヨーロッパ各国政府が待ったをかけているのですが、ここで欧州各国政府当局者が恐れているのは、単なる経済損失というよりも世界的大流行という物言いが世の中に出回ってしまうことによる社会的混乱(とそれに起因する経済損失)です。

ここで問題なのは、感染拡大による損失とは単なる人的損失にとどまることはないだろうし、社会的混乱による損失というのも経済的なそれに限られないということです。そもそも経済的な損失のすべてが社会的混乱に起因はするというならまだしも、インフルエンザに起因するということにしたんじゃそれはホラー映画とほとんど変わらない分析で話にならん。
しかしまぁそれは損失という意味では変わらないのであるから、全体の損失をもっとちゃんと考えましょうという感じでいいと思います。



気になったのは後者です。 

ここで人類学的な知見といわれているものは、頭で考えた論理ではなくて、言うなれば庶民の感情、あるいは経験的に得られる生きる知恵という類いのものです。

しかし、逆にこの庶民感情というものをスタートにして考えれば、そこから社会の福祉を希求する模範的市民を見出すことがそう単純な過程ではないことが予想されます。


庶民とは彼/女自身の生活世界と切り離して考えることができません。庶民とは生活する主体です。庶民は生活なしでは存在しえません。というよりも、生活しない庶民を想定することがそもそも不可能にも思われます。それはド金持ちの首相がよく口にする「庶民」という言葉のいかがわしさにも似ています。

庶民が、インフルエンザの蔓延という事態に直面したときに最も留意するのは「自分が感染しないようにするにはどうすればいいか」「幼いわが子や年老いた両親をウイルスから守るにはどうすればいいか」といったことです。つまり自分の生活世界をどう防衛するかということに重点が置かれるわけです。
防衛にはさしあたり排除と根絶という二つの手段がありますが、庶民が後者を選択することはできないので必然的に前者を選択することになります。この排除という行為が顕在化したものとして、世界にも稀にみるという意味において世界に誇れるマスク争奪戦&高着用率があります。現に起きているインフルエンザ患者への差別や誹謗中傷も、このような「我が身の安全」を求める排除の心情と表裏一体なのであり、それ自体が社会的混乱(これをみんなは風評被害とかいう)の一端と見ることもできるかもしれません。

マスクを買いあさり、発熱外来に殺到し、マスコミがヒステリックに垂れ流す患者発生の情報に踊らされ、不幸にも発症したりその可能性が少しでもある人びとを差別するような「無知蒙昧な」庶民を、「行政当局が『外出を自粛し、手洗いうがいを励行せよ』とアナウンスしているのを『そのまま』遵守している」(以上内田ブログより引用)模範的市民と呼ぶことは、論理的な矛盾をどうしてもはらんでしまうのです。

人類学的知見から物事を考える、あるいは庶民の立場でモノを言うというのは、このような事態を容認はせずともその存在を認める(承認する)ということに他なりません。現代の庶民は反モラリストであり、いまや共同体主義が払拭された大衆の生活世界には功利主義がはびこっていますが何か? そこには権力はありこそすれ、社会や国家という審級は論理上その存在を留保されているのです。そのような世界からどうやって福祉を(モラルではありませんよ)見出すのかが問題です。

私の答えは昨日書いたとおりです。まずはガチガチの功利主義で行くしかない。私は民衆文化論(あるいは広義の民俗学)と安藤馨の接合を半ば本気で考え始めています。今回のインフルエンザ騒動を、そして現代の功利主義を考えるならば情報やアーキテクチャといったことにも触れるべきでしょうが、そこらへんはまだ勉強中。

しかし神戸で実際に混乱ぶりをご覧になっている内田先生の、まさにご自身の生活から来る一種の配慮は分からないでもない。それでも模範的市民はいるのだと云わなければならない気持ちは少しだけ理解できます。社会的紐帯やモラルを完全に否定することに繋がりかねないし。でも矛盾は矛盾だから。

内田先生が人類学的知見とか言うから悪いんだお