「失われた景観」ってのの実用性を疑いつつ、勝手にカスタマイズ

 たとえば消費という側面に限って公害化を論じたものとして、松原隆一郎氏の諸作がる。おそらく、冒頭で述べたような「ウンザリしてましう感覚」というのは、氏がいうところの「失われた景観」

失われた景観―戦後日本が築いたもの (PHP新書)

失われた景観―戦後日本が築いたもの (PHP新書)

というやつなのだろう。田舎の幹線道路を通過するときにいやおうなしに目に入ってくるファミレスとガソリンスタンドとコンビニと大型DIYショップの連続は、景観が「失われた」と形容できるほど、わたしたちをウンザリさせる。そこには牧歌的な田園風景はもはやない(そんなゆーとぴあが本当に存在したかどうかという話はおいといて)。

 しかしそこに住むものにとって、郊外化された幹線道路は利便性にあふれた都市の生活を(ほんの一瞬でも)享受できるエンターテイメントな空間でもあることには注意しておかなければいけない。だいたい田舎者は、どこまでも広がる田園風景というものにほとほとウンザリしている。東京や大阪に出てかっこいい「シティライフ」というものを一度でいいから経験してみたいと、本気で思っている。もはや情報は手元にあるのだ。消費の欲望はかきたてられるばかりである。

 情報はどんどん入ってくるのにそれを消費できない(あるいは消費を実現するためのコストがかかりすぎる)ほどつらいことはない。目の前にニンジンぶら下げられてずーっと走っていっているようなもんだ。

 ここ鹿児島の片田舎においては「失われた景観」という言葉が、強烈な消費の欲望にかんたんにかき消されてしまうような状況というものがある。この感覚がずっと都会に住んでいるひとには分からないらしい。