郊外論1

 本日は家業が開店休業状態である。ヒマである。

 というか正月からこのかた、どうしようもなくヒマである。あと2ヵ月ほどこの状態が続くもよう。
父などはいきなり鹿児島市内に遊びにいってしまった。明日まで帰ってこないんだと。
ファンキーなおやじだ。





だがしかし、いずれにせよ、いかんせんユーウツであることこのうえない。






 田舎にいるからやることがないとか、都会に行けばどうにでも忙しくなるって言いたいわけじゃないんです。以前に比べれば田舎暮らしもとっても快適になりました。ブロードバンドはあるし、コンビニはたくさんある。ツタヤもできました。情報という点では都会となんら格差はありません。

 しかしむしろ、その中途半端な都会っぷり、田園とコンビニが共存する地域ってのは、一歩まちがえると、平坦なロードサイドに続くのっぺりとした郊外型社会以外のなにものでもありません。あの「郊外」の雰囲気というのが、わたしはどうにも苦手なの。


 ってなわけで、以前からちょくちょく書いていたのだが、郊外とか地域社会ってことについて、せっかく田舎にいるんだから、もう一度考えをまとめてみようと思う。まぁどうせヒマですし。

「郊外」というモデルを鹿児島の片田舎にあてはめてみる

 たとえば大場正明さんの文章は、都市の周辺に発達したサバービアが、中産階級ユートピアなどではなく、むしろディストピアと化している現象を全世界的な比較によってわかりやすく教えてくれるが、ここで言われているモデルとしての「郊外」ってのを現代日本に援用するときには、いくつか留意しておかなければいけないこともある。

 ここでいうサバービアというのは、都市という中心とその周辺に形成された居住地としての郊外の関係性の上に成り立っているのだが、ここ鹿児島の片田舎にはそういった中心というものがない(通勤する場所としての、いわゆる大都市というのはここから車で1時間半以上の場所にしかない)。ここにはただただ「郊外」っぽい社会が、農村型社会と並存しつつ広がっている、としか形容できない。

 ここ鹿児島の片田舎で起きていることってのは(そしてそれは全国の地域社会で起こっていることでもあるのだが)、田畑がつぶされ、高度で均一的な消費のシステムがハード/ソフトの両面において浸透した結果もたらされたものである。あくまでも社会形態としては田舎の、農村型社会の形態を保っている。ここでの郊外化とはあくまでも消費という面に限られている*1

*1:新幹線や高速道路の開通によって鹿児島の片田舎はますます流動化している。しかし、それは社会全体の変化を促すほどのインパクトを持つにはいたっていないようだし、それに関して、わたしはまとまったアイデアを持ってないので。

「失われた景観」ってのの実用性を疑いつつ、勝手にカスタマイズ

 たとえば消費という側面に限って公害化を論じたものとして、松原隆一郎氏の諸作がる。おそらく、冒頭で述べたような「ウンザリしてましう感覚」というのは、氏がいうところの「失われた景観」

失われた景観―戦後日本が築いたもの (PHP新書)

失われた景観―戦後日本が築いたもの (PHP新書)

というやつなのだろう。田舎の幹線道路を通過するときにいやおうなしに目に入ってくるファミレスとガソリンスタンドとコンビニと大型DIYショップの連続は、景観が「失われた」と形容できるほど、わたしたちをウンザリさせる。そこには牧歌的な田園風景はもはやない(そんなゆーとぴあが本当に存在したかどうかという話はおいといて)。

 しかしそこに住むものにとって、郊外化された幹線道路は利便性にあふれた都市の生活を(ほんの一瞬でも)享受できるエンターテイメントな空間でもあることには注意しておかなければいけない。だいたい田舎者は、どこまでも広がる田園風景というものにほとほとウンザリしている。東京や大阪に出てかっこいい「シティライフ」というものを一度でいいから経験してみたいと、本気で思っている。もはや情報は手元にあるのだ。消費の欲望はかきたてられるばかりである。

 情報はどんどん入ってくるのにそれを消費できない(あるいは消費を実現するためのコストがかかりすぎる)ほどつらいことはない。目の前にニンジンぶら下げられてずーっと走っていっているようなもんだ。

 ここ鹿児島の片田舎においては「失われた景観」という言葉が、強烈な消費の欲望にかんたんにかき消されてしまうような状況というものがある。この感覚がずっと都会に住んでいるひとには分からないらしい。

いきなり「萌の朱雀」というデキの悪い映画のことを思い出したのだが

 
 この映画、たしかカンヌかベルリンかのグランプリを獲ってるのだが、そんなことはどーでもよくて、この映画は奈良のとんでもない山奥の村に鉄道がやってくるって話があったんだけど、それが頓挫して、鉄道開通に一縷の望みを賭けていた陰鬱なおじさんが絶望して自殺しちゃって、残された家族が散り散りバラバラになって悲しいねという物語で、ようするに母なる共同体の崩壊を淡々と描いている。
 鉄道ごときで自殺しちゃうってちょっと極端だねって感じもしないでないが、田舎者にとって鉄道や道路があるってことは、外の世界/都会とつながっているって感覚を持ち続けるためにとっても重要なことなのです。とくにおもしろいのは、外の世界と繋がっていたい、ここにとりのこされたくないというこの強迫観念が、村会議員とか役場の偉いさんとかに代表されるような、地域社会の諸問題について最前線で格闘する中年男性に多く見受けられるからおもろい。

 この田舎中年男子の強迫観念は、ナメてかかると痛い目にあうってぐらいすごいものだ。いかんせん連中は地域社会のことについて、まじめに本気に自殺しちゃうほど悩み考えている。昨今の行政改革を機に、財政が苦しくなった総務省が「公共事業に依存しない地域のあり方を」などとイチャモンつけて交付金をバンバン削っていますが、おそらくそんなもんでは全然へこたれないくらい強烈な強迫が田舎中年男子を襲っているのである。まぁたいへん。

鹿児島県はさいきん知事が替わって若い知事さんになったのね。

 んで、カッコつけてタウンミーティングとかやってるんだけど、そこでは「薩摩半島大隈半島のあいだに大きな橋を架けてほしい」とか「佐多岬まで高速道路を通してほしい」とか「鹿児島空港からの国際線を増やしてほしい」とか、まぁよくそんなことが言えたもんだ君のオツムの辞書には財政難という言葉はないのかねおいっ!って小一時間ほど問い詰めたくなるようなDQNなご意見が、聴衆からバンバン飛び出して、知事さんも困り果てるという微笑ましい光景が広がっているらしい。

 ではどうするか。









 田舎の中年男子全員にカウンセリングを受けさせましょうか。







 いや、そういうことではなくてですね。話が大きく反れつつ、次回へ。「失われた景観」についてもうちょっとカスタマイズを続けます。